2011年1月 4日

大掃除だいたい完了。
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出てきた出てきた、前の仕事の時の書類やらデータ入りMOやら確定申告書類やら、みんな捨ててやったわい!手紙もファイリングしたし本も整理したし、あーすっきり。

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2011年1月 5日

病室日記 11月17日(水) 家庭の医学
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

朝、母の体内酸素濃度が低くなる。痰が詰まりやすく、肺に異物が入りやすい模様。体内酸素濃度は100が最も良く、90くらいはキープしたいようなのだが、今の母は86〜90ぐらい。でもまだ安定しているから大丈夫、という看護士さんに励まされて出勤。いつも通りに仕事に精を出す。

事情を知っているお客様や友人がお店に顔を出してくれ、「祈ってるからね!」「念を送ってるから!」と声をかけて下さるのがありがたい。ありがたいが、これだけ毎日、ゆるやかに死に向かってゆく母を見ていると、いったい何に対して祈ればいいのか判らなくなってくる。奇跡が起きて母の脳の出血が止まるのを祈ればいいと言うのか? それとも母が苦しまずに済むように祈ればいいのだろうか? 何に対して祈ればいいのか判らないまま、ただ母のしあわせを祈る。笑うといつも大笑いになる、母の笑い声を想う。

レベッカ・ブラウン「家庭の医学」読了。母の介護、そして死に至るまでが淡々と、でもリアルに、描かれていた。よく分かりすぎて困るぐらいに、その心情を理解できた。

諦めと希望の入り交じった感情、諦めることへの罪悪感や、無力感と、それでもまだできることがあるという喜び。兄妹で葬儀について話す哀しみと現実に向かい合う強さ。

きょう、うちでも葬儀の話題が出た。「どうしたいと言っていたか、よく考えておいてくれ」と言う父だって辛いに決まっている。

 

病室日記 11月18日(木) 穏やかな顔
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

昨日は忙しく、仕事が終わるのが遅くなってしまったため、一旦帰宅してお風呂に入る。家がokayanの匂いになっている。病室に長い間泊まりすぎて、なんとなく病院に住んでいるような気がしてくるから不思議だ。数日空いただけで家は少しよそよそしくなり、病室は親密になってくる。okayanと一緒にもういちど病室に寄ってから出勤。

夜、友人の友人がお客様として来店。ひさしぶりだったのだけれど何も事情を知らない彼は「どうしたの? 何か良いことあった?」と言う。「なんで? いいことなんて何もないよ」と答えると「あれー、そう。いや、なんか、今まであった中で一番穏やかな顔してるからさ」。

母と向き合うことで何か大切なことを悟らされていて…その「悟りの顔」が穏やかな顔になっているのだろうか?

 

2011年1月11日

病室日記 11月19日(金) 脱力。
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

見慣れた病室、いつもの朝。病室泊も一週間目ともなると、生活の一部のように見慣れた風景になってくる、病院というものに縁のない人生を歩んできた私にでさえ。母の血圧と脈拍、体内酸素濃度を定期的に、自動で測る機器の見かた、エラーが起きた場合の対処の仕方など、もはやお手の物。今朝も低めだが母の容態は安定している。いつものように看護士さんが朝の処置をしてくれ、父が病室にやってくるのと交代して仕事に向かう。

いつ来れなくなってもいいように、スタッフに指示をする。呼ばれたらいつでも飛び出して行けるように、全力でいつもより多めの仕込みをし、落ち度はないか確認する。スタッフが私をサポートしてくれる。

夜、19:00を過ぎた頃に、店に父が食事しにやってくる。「あれ?大丈夫?おかあは」と聞くと「オッケーオッケー、安定してる。今、シホもリュウを連れて一度家に帰ってるよ。サチコがついてる」と余裕の表情で、妹も甥っ子を連れて一旦帰宅、伯母が一人で病室にいるという。「じゃ、俺ちょっとパトロールしてくる」と、馴染みの店を何軒かハシゴしに父は帰っていった。父の馴染みの店は、母の馴染みの店でもある。心配する知り合いたちに、父はいつも元気な自分を見せようとする。

21:00前、店の電話が鳴る。「麻美?なんかね、ヨウコちゃんがさ、急に血圧と脈拍が下がってね、看護士さんが、あっ大変って、ご家族を呼んで下さいって、でもどうしよう、大変だよ…」取り乱した伯母の様子に「今すぐ行く!」とだけ答えて電話を切った。直後に父からも電話が入り「聞いたか?」「聞いた」「今俺もタクシー乗ったから」「私もすぐ行く」と答え、後の営業をokayanとスタッフに任せ、自転車をかっ飛ばす。普段なら自転車で10分の距離。あと3分の距離で自転車のチェーンが外れる。こんな時に限って。決して運動の得意ではない私、自転車をひいて突っ走っていく。見慣れた病院、見慣れた廊下、エレベーターに乗って3階の脳卒中センターへ。

病室へ滑り込むと家族が揃って母を囲んでいた。母の肌の色が、一目して分かるほど黄みがかっていた。「お姉ちゃん、間に合わなかったよ」妹が泣きそうな顔で言った。「みんな間に合わなくって…すぐ来たのにね」「俺なんかちょうどタクシーに乗り込むところで連絡が来たから、10分もしないで着いたのに、間に合わなかった」妹も父も、母の最期を看取ることができなかった…伯母だけがそこにいたのだった。

母の容態が急変してから、最期の瞬間まではあっという間だったと伯母は言った。「看護士さんが、ご家族を呼んだ方がいいって言ってからすぐに連絡したんだよ、でも、本当にみるみる血圧も、脈拍も落ちていって…あっというまだった、あっというまで…」いつまでも、伯母は取り乱した様子だった。まだ温かい、けれども活動することをやめてしまった母を囲んで、医師が来るのを待っていた。担当医が不在の時間で、当直の、初めて見る女医さんが看護士さんに呼ばれてやって来た。脈やら瞳孔やらを確認して「11月19日、21時30分、ご臨終です…お力になれなくて残念です」と看護士さんと一緒に一礼した。担当でもなく、初めて母に会ったであろうその若い先生が、臨終の確認をして、残念ですと言うことが、なんだか滑稽な気がした。

母の臨終に実感が湧かないまま、現実はどんどん動いていく。妹と伯母が病室の私物を片付け、父は知り合いの葬儀屋に連絡し、私は看護士さんにこれからの段取りを聞いていた。妹たちは車で一足先に家へ、私と父は母と一緒に葬儀屋の到着を待つことになった。看護士さんが母の遺体の処置をしている間に、父は親戚や友人に、私は店に連絡した。okayanがすぐに出た。「間に合わなかった。だめだったよ…」「そうか、」死を伝えるとき、人はたいして多くの言葉を持つことができない。

病室の外のベンチに父と並んで座っていた。「でもさ、おかあらしいよね」母の逝き方があまりに急で、実感がわかず、笑ってしまう。「直前まで全力でがんばって、脈拍も血圧も安定していたのに、急に気が変わったみたいにがんばるのやめて、脱力して逝っちゃうなんてさ」「そうだな。しかも俺たちがいない隙にな。…きっと『あいつらうるさいから、今のうちだ!』なんて、急いで逝っちゃったのかも知れないな」「あーあ」二人で笑い泣きした。

葬儀屋がストレッチャーをひいて病室へやって来て、母に手を合わせて、看護士さんと一緒にベッドからストレッチャーへ母を移した。エレベーターで地下まで降りる。地下はしんとしていて、長い廊下をストレッチャーが動く音だけが響いている。霊安室の前を通り、何もない壁の間を、裏口に向かって歩いていく。野球で負けたチームが、裏から出口に向かって歩いていくような気持ちになる。出口の外は業務用の搬入・搬出口のようになっており、スロープを降りてきたワゴン車が待っていて、母はストレッチャーごとワゴン車に入れられる。私と父もそのワゴン車に乗りこむ。振り返ると、ついてきた看護士さんたち3人が揃って美しい礼をした。見事に3人角度が揃った礼だった。まるで、慣れているように見えるぐらいに。

夜の風景の中を、眠る母と一緒に家へと向かった。母の不在を痛感するには、まだまだ時間がかかるに違いない。

さよなら、病室。

さよなら、おかあ。

心の準備をする時間を、長いお別れの時間をくれて、ありがとう。

 

2011年1月14日

プランナー魂。
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

母の葬儀は無宗教の形式で行った。生前、母がそれを望んでいたからだ。

無宗教式というのは決まりも何もない、自由な分だけ、葬儀屋さんも慣れてはいないようで、こちらから提案しないと、何も打ち合わせがすすまない。「何をしたいか考えておいて下さい」…って言われてもなあ。お経は唱えない、じゃあ献花形式にしよう、母は花が好きだったからね。普通はプロフィールを紹介するらしい。告別式では病気の進行についてとかも軽く触れたりするらしい。

葬儀屋さんのサイトや一般常識の情報ページなどを見ながら、普通はどんなことをするのか、そのなかで不必要なのは何か、逆にその穴を埋めるべきか、埋めるなら何で埋めるか…。あれこれ調べたり考えたり打ち合わせたりする私は、即席の葬儀プランナーであった。父と妹は親戚や訪問客の対応に追われ、逆に葬儀の企画や打ち合わせ事務仕事の一切は私が任せられる形になったのだ。

私もプランナーを10年もやっていた身だ。葬儀プランナーだってなんとかやってやろうじゃないの。

母の死は辛いし哀しい、けれどそのあとにやって来た「しなければならないこと」の山は、私たち家族が哀しみの底へ落ちないための命綱になった。

祭壇はどのようにするか、棺は、骨壺は、火葬場のグレード(!)は、時間は、列席者は何人ぐらいになりそうか、会場はどこにするか、供食のおもてなしはどのくらい用意するか、香典返しは何にするか、メッセージカードのデザインはどうするか、献花の花はどの花を何本用意するか、祭壇の他に飾る花の手配はどうするか、友人代表の挨拶は、受付は誰に頼むか、音楽はCD−ROMに落として渡す、火葬場に行く人は誰か、人数は、帰ってきてからの食事は何人前か、どの値段のものにするか…ありとあらゆる細々としたことを決めていく。

困ったのは、お経を読まないので間が持たない、ということで、音楽を流すだけでは寂しいのではないかと葬儀屋さんに言われたこと。色々考えた結果、「そうか、お葬式だと思うから考えが行き詰まるんだ。無宗教式なんだから、もっと自由に考えればいいのだ。もっと…そう、結婚式ぐらいの気持ちで母を送った方が良いのではないだろうか?」という結論に行き着いた。

祭壇も献花する花もピンクと白(母は意外と可愛らしいものも好きだった)にし、友人代表の挨拶を頼み、プロフィール紹介は長めに、母の人となりを伝える楽しさを含めたものにした。そして告別式では母への手紙を読むことにしたのだが、妹に書いてと頼むと「いや!本当にそういうの苦手なんだから!!」とかたくなに拒否された。妹は結婚式で母への手紙を書くことも最後までかたくなに拒否していたのだが、ダンナに説得されて書いたという前例を持っている。とにかく文章を書くのも得意ではないからと言い訳していたが、読みながら泣いてしまうのもいやだったのだろう。父は喪主の挨拶があるし、やっぱりここは私が手紙を書こうということになった。大体私は、自分の結婚式を自分のお店でやったため、形式にとらわれずやりすぎて、母への手紙とか感謝の言葉とかを書き記したことがなかったのだ…やっぱりここは私が書くべきだろうと思った。

そうは言っても葬儀プランナーをしつつ、来客の対応だって全くしないわけにもいかない…何だかんだで2日の猶予はあっという間に過ぎ、お通夜の当日を迎えてしまった。まだ手紙は1行も書いていない。なぜかと言えば、結局お通夜・告別式の進行表やら、司会者が話す内容の原稿、母のプロフィール原稿などを、すべて私が書いていたからである。情緒に浸って手紙を書いているヒマなどない。頭は完全にプランナーモードである。

よし、わかった。諦めた。告別式当日の朝、書こう。

お通夜の夜から告別式の朝にかけては「夜とぎ」といって、母のかたわらで家族が寝ずの番をする。告別式は12:00からだから、会場に泊まった日の朝ならたっぷり時間があるに違いない。夜に書く手紙は重くなりやすい…メランコリックに、情感豊かすぎるように。朝、すっきりした頭で、母と向き合おう。

 

2011年1月20日

根性の朝ウォーキング!
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一日坊主でもやらないよりマシ!いいもの見た!富士山~

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